中の戯れ言(本当にとりとめなく戯れ言)
2006年 04月 29日
ひどい話し、桜庭一樹という名前さえ知らない。
私は最近よく本を読む方だが、それは本が好きというよりは、神林長平が好きというのに違いなくて、だから読む本には偏りがある、とても。
その神林長平の書いた本の解説文を桜庭一樹が書いていて、とても共感したし、おもしろかった。解説文がおもしろかったと言われて作者が喜ぶかどうかは別だと思うが、解説文がおもしろいということは、書き手もおもしろい人物である、と思う。解説文は物語を作らない。「みせる」ことはあっても「つくる」ことはないから。裏を返せば、「つくる」ことのない解説文が好きなのだと思う。
桜庭一樹はとてもとても神林長平の小説に思い入れがあって、向き合っている彼のとても楽しそうな様が文章から伝わってくる。彼の言う「誘惑的な余白」には大いに心当たりがあって、それが神林長平の小説にどっぷりはまる要素だと言うのだが、自転車に乗りながら本を読んだのは後にも先にも神林長平の小説だけだ。それほどに、はまる。
そういえば「良い作品」と「入りやすい作品」は別物と、なにかの解説に書いてあった気がするのだが、それも、激しく同感で、最近読んだ村上春樹は前者であった。良くできた作品であるというのはわかる。わかるくらいだから本当によくできた小説なのだろう。でも好き嫌いで言えば好きではないし、わかるかと言われればわからないとしか答えようがない。繰り返し読めば良さがわかるのかもしれないが、繰り返し読むのは遠慮したい。それほど取っつきにくい。
これは決して村上春樹が駄目だと言っているわけではなくて、自分とはこんなにもちがう感性の人間がいるのだなあと、思うのだ。同時に、たかだか日本という小さな土地の、広さを感じた。
生まれた場所やら育った場所やら生きた時間やら取り巻く人間の種類や、そんな物が確実に違う人間はこの狭い日本にごまんといるのだろう。そんな人たちと日々すれ違っているのだ。
まあ、なんでもいいや。
桜庭一樹の書いたものが読みたいなと、思っただけ。
私は最近よく本を読む方だが、それは本が好きというよりは、神林長平が好きというのに違いなくて、だから読む本には偏りがある、とても。
その神林長平の書いた本の解説文を桜庭一樹が書いていて、とても共感したし、おもしろかった。解説文がおもしろかったと言われて作者が喜ぶかどうかは別だと思うが、解説文がおもしろいということは、書き手もおもしろい人物である、と思う。解説文は物語を作らない。「みせる」ことはあっても「つくる」ことはないから。裏を返せば、「つくる」ことのない解説文が好きなのだと思う。
桜庭一樹はとてもとても神林長平の小説に思い入れがあって、向き合っている彼のとても楽しそうな様が文章から伝わってくる。彼の言う「誘惑的な余白」には大いに心当たりがあって、それが神林長平の小説にどっぷりはまる要素だと言うのだが、自転車に乗りながら本を読んだのは後にも先にも神林長平の小説だけだ。それほどに、はまる。
そういえば「良い作品」と「入りやすい作品」は別物と、なにかの解説に書いてあった気がするのだが、それも、激しく同感で、最近読んだ村上春樹は前者であった。良くできた作品であるというのはわかる。わかるくらいだから本当によくできた小説なのだろう。でも好き嫌いで言えば好きではないし、わかるかと言われればわからないとしか答えようがない。繰り返し読めば良さがわかるのかもしれないが、繰り返し読むのは遠慮したい。それほど取っつきにくい。
これは決して村上春樹が駄目だと言っているわけではなくて、自分とはこんなにもちがう感性の人間がいるのだなあと、思うのだ。同時に、たかだか日本という小さな土地の、広さを感じた。
生まれた場所やら育った場所やら生きた時間やら取り巻く人間の種類や、そんな物が確実に違う人間はこの狭い日本にごまんといるのだろう。そんな人たちと日々すれ違っているのだ。
まあ、なんでもいいや。
桜庭一樹の書いたものが読みたいなと、思っただけ。
by plasebo55
| 2006-04-29 00:14
| 戯れ言