鏡面
2006年 05月 09日
「あのね。行きたいところがあるの」
一つの打ち損じもないドルチェの射撃訓練を飽きもせず延々と眺めた後、マルガリータはそう切り出した。
「ちょっとマルガリータ、走らないの」
ドルチェはマルガリータの手を握りしめたまま、なるべくゆっくりと歩いていた。周囲をできうる限り警戒しながら行く。ゆっくり歩くのはできるだけ奥に入り込みたくないからである。ここは、ある意味戦闘地域よりも危険な場所だから。
地下マーケット。マルガリータの口にした場所は、その名の通りの場所だった。合法、非合法、この世に存在するものがすべて手にはいると言われる、地下100メートルのところに埋まったマーケットだ。雪の城と呼ばれるこの前線基地など比較にならないほど大きな敷地に(これは雪の城が比較的小さな基地であることも関係するだろうが)、マーケット独自の秩序でもって、所狭しと店が並んでいる。初めて訪れる人間は必ずガイドを連れて行かなければ迷ったし、もし迷った人間がいれば、それを相手に商売をする人間もいた。善良であれば案内業、狡猾であれば高価な地図を、悪辣であれば人身売買と、買い手の必要に応じて売り手も様々だ。
まるでスラムのようで、隙を見せれば丸裸にされて命さえない、ドルチェはそんな印象を抱いていたし、それはおおむね正しかった。
よりによって地下マーケットだなんて。
自分が断って、マルガリータが別の人間、たとえば流割を誘えば良いが、一人で行くと言い出すことは十分考えられた。へたに止めて、後ほどこっそり行かれたりすれば、もう守ってやる手段もない。彼女を守ることは自分たちの命を守ることだというのは、短い間だが一緒に基地で過ごしてわかったことだ。仕事ではない、生きるためのこと。ドルチェはため息をつくのをやめて、コートの上から護身用の自動拳銃に触れる。本当は自動小銃くらい持ち歩きたかったが、さすがにマーケットを歩くのには目立つ。
マルガリータは迷わず小道を進む。見知った道なのだろう、スピードを緩めるそぶりさえない。散歩する犬に引きずられる飼い主ってきっとこんな気持ちね、とマルガリータに手を引かれながらドルチェは呆然と思い、もしマルガリータが無目的に路地に入り込んでいるのなら生きては出られないだろうと思って、さらに呆然とする。似たようなテントと屋台のある地域だ、道などとうにわからない。
マルガリータはひときわ細い路地を曲がるとすぐのテントへと入り込んだ。
「ねえ、売れてない?」
店に入ってようやく手を放す。テントといっても軍仕様の大型テントだったから雑魚寝なら二十人の大人が寝られる広さだ。天井も高い、女としては背の高いドルチェも身をかがめることなく歩けるだろう。
なにもなければ。
「なんだ、マルガリータじゃねえの。間違えずに来たかよ」
「間違えないよ。子供じゃないんだからー」
頬をふくらませるマルガリータと、大声で笑う店主、だろう。ドルチェは天井からつり下がる商品をのれんよろしくくぐって奥へと進む。見たところ、雑貨屋だろう。時計や靴や帽子や指輪や髪留めや、ちらりと見えた店主に似つかわしくないかわいらしい物が所狭しと並んでいる。
テントの奥に小さなカウンターと旧式のレジ、レジ横には白いもこもことした熊のぬいぐるみが積み上がっている。レジ奥に収まりきれずにはみ出す体格の店主は、もさもさの黒い熊のような男だった。
「普通は間違えんだって。なあ?」
店主がドルチェに声を投げる。いきなりのことに返事ができずにいると、マルガリータがそうかなあと疑わしそうな声を出して、店主がまた笑った。
「まあいいやな。これだろ、お目当ては」
「とっておいてくれたの? ありがとう。だから好き」
「はは、良いってことよ。ここいらの店開いてられんのはみんなおまえさんのおかげだしな」
毛むくじゃらの手がカウンターの下から取り出したのはなんとも優しいピンク色のマフラーで。嬉々としてマルガリータがマフラーを首に巻いて鏡を覗き込む。
「そっちのお嬢ちゃんは買いモンかい、売りモンかい?」
「私は」
ただの付き添いで。お嬢ちゃんと呼ばれたことに目を白黒させながら、ドルチェは店主と目があって口をつぐんだ。地下マーケットに行くと言うから身を守ることばかり考えていて、金もろくに持ってこなかった。こんな店に来るとわかっていれば少し準備してくるのだった、と惜しい気もしてくる。
店主は見透かすように笑って毛むくじゃらの手を差し出した。
「じゃあそのコートの下に隠してるモン売ってけよ。そんなもんなくたってここは生きてけるぜ」
はっとして半歩後じさると、差し出したのとは反対の手で店主がぼりぼりと頭を掻いた。
「ああ、ああ、警戒しなさんな。どうせ隙を見せたら骨までしゃぶられるとか聞いてるんだろう。まあそりゃ事実だがよ、マーケットの連中は、客には誠意をもってんだ。いきなり後ろから撃ったりしねえのよ。考えても見ろや、客がいなきゃ商売はできねえ、だろ? おまえさんもマーケットの客になっときゃ安心ってもんだ。」
差し出された手がひらひらと振られる。
ここで銃を手放せば帰りは丸腰だ。ドルチェはもじゃもじゃの手を凝視しながら考える。自分の身を盾にしてもマルガリータを守ってやれるかわからない。けれど、店主の言うことは道理が通っているように思う。自分が客でいる限り、たとえば店主に銃を向けなければ自分が撃たれることはないということか。ならば銃を持たないことが身を守るということもあるかもしれない。
しばし葛藤、そして。
「いいコだ」
店主が歯を見せて笑った。思ったより白くてきれいな歯並びだ。
「マーケットが仇にすんのは、マーケットの存在を脅かす存在のみよ。俺らの意志を踏みつぶす奴らよ。そいつら相手になら、戦争だってする。……ほらよ」
「きゃっ」
一瞬、視界が真っ暗になる。
「そいつやるよ。客の印に」
「ドルチェ、似合うよ」
マルガリータが差し出した鏡を覗く。頭に被されたのは空色の毛糸で編まれた帽子だった。
一つの打ち損じもないドルチェの射撃訓練を飽きもせず延々と眺めた後、マルガリータはそう切り出した。
「ちょっとマルガリータ、走らないの」
ドルチェはマルガリータの手を握りしめたまま、なるべくゆっくりと歩いていた。周囲をできうる限り警戒しながら行く。ゆっくり歩くのはできるだけ奥に入り込みたくないからである。ここは、ある意味戦闘地域よりも危険な場所だから。
地下マーケット。マルガリータの口にした場所は、その名の通りの場所だった。合法、非合法、この世に存在するものがすべて手にはいると言われる、地下100メートルのところに埋まったマーケットだ。雪の城と呼ばれるこの前線基地など比較にならないほど大きな敷地に(これは雪の城が比較的小さな基地であることも関係するだろうが)、マーケット独自の秩序でもって、所狭しと店が並んでいる。初めて訪れる人間は必ずガイドを連れて行かなければ迷ったし、もし迷った人間がいれば、それを相手に商売をする人間もいた。善良であれば案内業、狡猾であれば高価な地図を、悪辣であれば人身売買と、買い手の必要に応じて売り手も様々だ。
まるでスラムのようで、隙を見せれば丸裸にされて命さえない、ドルチェはそんな印象を抱いていたし、それはおおむね正しかった。
よりによって地下マーケットだなんて。
自分が断って、マルガリータが別の人間、たとえば流割を誘えば良いが、一人で行くと言い出すことは十分考えられた。へたに止めて、後ほどこっそり行かれたりすれば、もう守ってやる手段もない。彼女を守ることは自分たちの命を守ることだというのは、短い間だが一緒に基地で過ごしてわかったことだ。仕事ではない、生きるためのこと。ドルチェはため息をつくのをやめて、コートの上から護身用の自動拳銃に触れる。本当は自動小銃くらい持ち歩きたかったが、さすがにマーケットを歩くのには目立つ。
マルガリータは迷わず小道を進む。見知った道なのだろう、スピードを緩めるそぶりさえない。散歩する犬に引きずられる飼い主ってきっとこんな気持ちね、とマルガリータに手を引かれながらドルチェは呆然と思い、もしマルガリータが無目的に路地に入り込んでいるのなら生きては出られないだろうと思って、さらに呆然とする。似たようなテントと屋台のある地域だ、道などとうにわからない。
マルガリータはひときわ細い路地を曲がるとすぐのテントへと入り込んだ。
「ねえ、売れてない?」
店に入ってようやく手を放す。テントといっても軍仕様の大型テントだったから雑魚寝なら二十人の大人が寝られる広さだ。天井も高い、女としては背の高いドルチェも身をかがめることなく歩けるだろう。
なにもなければ。
「なんだ、マルガリータじゃねえの。間違えずに来たかよ」
「間違えないよ。子供じゃないんだからー」
頬をふくらませるマルガリータと、大声で笑う店主、だろう。ドルチェは天井からつり下がる商品をのれんよろしくくぐって奥へと進む。見たところ、雑貨屋だろう。時計や靴や帽子や指輪や髪留めや、ちらりと見えた店主に似つかわしくないかわいらしい物が所狭しと並んでいる。
テントの奥に小さなカウンターと旧式のレジ、レジ横には白いもこもことした熊のぬいぐるみが積み上がっている。レジ奥に収まりきれずにはみ出す体格の店主は、もさもさの黒い熊のような男だった。
「普通は間違えんだって。なあ?」
店主がドルチェに声を投げる。いきなりのことに返事ができずにいると、マルガリータがそうかなあと疑わしそうな声を出して、店主がまた笑った。
「まあいいやな。これだろ、お目当ては」
「とっておいてくれたの? ありがとう。だから好き」
「はは、良いってことよ。ここいらの店開いてられんのはみんなおまえさんのおかげだしな」
毛むくじゃらの手がカウンターの下から取り出したのはなんとも優しいピンク色のマフラーで。嬉々としてマルガリータがマフラーを首に巻いて鏡を覗き込む。
「そっちのお嬢ちゃんは買いモンかい、売りモンかい?」
「私は」
ただの付き添いで。お嬢ちゃんと呼ばれたことに目を白黒させながら、ドルチェは店主と目があって口をつぐんだ。地下マーケットに行くと言うから身を守ることばかり考えていて、金もろくに持ってこなかった。こんな店に来るとわかっていれば少し準備してくるのだった、と惜しい気もしてくる。
店主は見透かすように笑って毛むくじゃらの手を差し出した。
「じゃあそのコートの下に隠してるモン売ってけよ。そんなもんなくたってここは生きてけるぜ」
はっとして半歩後じさると、差し出したのとは反対の手で店主がぼりぼりと頭を掻いた。
「ああ、ああ、警戒しなさんな。どうせ隙を見せたら骨までしゃぶられるとか聞いてるんだろう。まあそりゃ事実だがよ、マーケットの連中は、客には誠意をもってんだ。いきなり後ろから撃ったりしねえのよ。考えても見ろや、客がいなきゃ商売はできねえ、だろ? おまえさんもマーケットの客になっときゃ安心ってもんだ。」
差し出された手がひらひらと振られる。
ここで銃を手放せば帰りは丸腰だ。ドルチェはもじゃもじゃの手を凝視しながら考える。自分の身を盾にしてもマルガリータを守ってやれるかわからない。けれど、店主の言うことは道理が通っているように思う。自分が客でいる限り、たとえば店主に銃を向けなければ自分が撃たれることはないということか。ならば銃を持たないことが身を守るということもあるかもしれない。
しばし葛藤、そして。
「いいコだ」
店主が歯を見せて笑った。思ったより白くてきれいな歯並びだ。
「マーケットが仇にすんのは、マーケットの存在を脅かす存在のみよ。俺らの意志を踏みつぶす奴らよ。そいつら相手になら、戦争だってする。……ほらよ」
「きゃっ」
一瞬、視界が真っ暗になる。
「そいつやるよ。客の印に」
「ドルチェ、似合うよ」
マルガリータが差し出した鏡を覗く。頭に被されたのは空色の毛糸で編まれた帽子だった。
by plasebo55
| 2006-05-09 21:10
| オリジナル小説