中の戯れ言
2006年 09月 20日
ただいま、とか書いておいて記事を書かない現状をどうにかしたいと思いつつ、なにやらできない現状…… 理由はいろいろあるけれど一言、怠惰、のような気もする。
今、夢枕獏を読んでいて(それも餓狼伝、古い)、ああこれもありなのだな、などと思うわけです。この本は身も蓋もない言い方をすればどう戦うのか、という本で、もう少し言えば戦うことをどう書くのか、に優れた本だ。なにしろ、始まりから終わりまで丹波文七は戦い続ける。戦うことで戦いを呼び、自らも新たな戦いを見つけるわけで、それは端から端まで格闘の話になるわけです。
こうなってくると、丹波文七がどれくらい強いのかとか言葉を尽くすことも大切だが、それよりも見せ場である戦いをどれくらいスムーズに見せるか、が重要になってくる。格闘は、その部分を文字で追ってもはっきり言ってつまらない。何しろ、文字を並べることは映像を一瞬見るよりも想像の入り込む余地がたくさんあって、だから逆に、想像できない文章で戦いを楽しむことはできないからだ。格闘どころか、剣道も柔道もしたことのない、スポーツはからきしで格闘技の観戦もしない私には文字は文字のまま、丹波文七は突っ立ったまんまである。そうなればつまらない格闘部分はとばして読むことになり、つまりこの小説はまったくつまらない、ということになってしまうのです。
ここでじゃあ格闘に興味のある人だけ読めばいいじゃん、それなら技の名前だけでも何しようとしているのかわかるでしょ、と言ってしまうとその小説はだれも読まない物になってしまう。格闘指南書でもないのなら、格闘家がその本を読みふけるというのは、あまり想像できることではない。
ではどうするのか。答えはずばり、格の違いやこれがどういった戦いになるのかを、あらかじめ書いてしまうのだ。たとえば蹴り技から入るのがセオリーだ、とか。寝技に入ったらはずすことができない、とか。ここは無理なく文七の視点で、彼が思い描く戦いの形や勝利へのもって行き方を、書いてしまう。そうすると不思議なことに、その流れ通りに話が進めば文七が強いように、話の流れを裏切ることで文七のピンチが、描かれるのである。見方を変えれば同じことを二度書くことになるわけだが、けれどそれが二度目の実際の戦いをスピードアップさせて、より肉迫した文章になるのだ。
この方法、ようく思い出してみると、数学の教え方に似ている。
問題を書いて、答えまでの道のりをざっと解いてみせる。理由とか理屈とかお構いなしに答えを出してみせる。ノートをとらせるスキも与えない。黒板に殴り書きしてイメージだけ残したらさっさと黒板をきれいに消してしまう。なんとなくわかったようなわからないような。ぽかんとした生徒の頭は、黒板を消されたら、どうやって解いたのかすっかり忘れてしまうのだけれど、なんとなく道順だけは残っている。ここでもう一度問題を書いて、今度はじっくりと解いてみせるのだ。
この方法、予習なんかしてこなくても授業を一分費やすだけで絶大な効果を上げる。何をしようとしているのか、ゴールを見せることで、教える側の意図がひどくつかみやすくなるのだから。
この自動予習機能をフルに生かしたのが餓狼伝。ただ同じことを二度書けばよいというわけではないけれど、夢枕貘の文章のうまさもあって、これはあり、だと思った。
今、夢枕獏を読んでいて(それも餓狼伝、古い)、ああこれもありなのだな、などと思うわけです。この本は身も蓋もない言い方をすればどう戦うのか、という本で、もう少し言えば戦うことをどう書くのか、に優れた本だ。なにしろ、始まりから終わりまで丹波文七は戦い続ける。戦うことで戦いを呼び、自らも新たな戦いを見つけるわけで、それは端から端まで格闘の話になるわけです。
こうなってくると、丹波文七がどれくらい強いのかとか言葉を尽くすことも大切だが、それよりも見せ場である戦いをどれくらいスムーズに見せるか、が重要になってくる。格闘は、その部分を文字で追ってもはっきり言ってつまらない。何しろ、文字を並べることは映像を一瞬見るよりも想像の入り込む余地がたくさんあって、だから逆に、想像できない文章で戦いを楽しむことはできないからだ。格闘どころか、剣道も柔道もしたことのない、スポーツはからきしで格闘技の観戦もしない私には文字は文字のまま、丹波文七は突っ立ったまんまである。そうなればつまらない格闘部分はとばして読むことになり、つまりこの小説はまったくつまらない、ということになってしまうのです。
ここでじゃあ格闘に興味のある人だけ読めばいいじゃん、それなら技の名前だけでも何しようとしているのかわかるでしょ、と言ってしまうとその小説はだれも読まない物になってしまう。格闘指南書でもないのなら、格闘家がその本を読みふけるというのは、あまり想像できることではない。
ではどうするのか。答えはずばり、格の違いやこれがどういった戦いになるのかを、あらかじめ書いてしまうのだ。たとえば蹴り技から入るのがセオリーだ、とか。寝技に入ったらはずすことができない、とか。ここは無理なく文七の視点で、彼が思い描く戦いの形や勝利へのもって行き方を、書いてしまう。そうすると不思議なことに、その流れ通りに話が進めば文七が強いように、話の流れを裏切ることで文七のピンチが、描かれるのである。見方を変えれば同じことを二度書くことになるわけだが、けれどそれが二度目の実際の戦いをスピードアップさせて、より肉迫した文章になるのだ。
この方法、ようく思い出してみると、数学の教え方に似ている。
問題を書いて、答えまでの道のりをざっと解いてみせる。理由とか理屈とかお構いなしに答えを出してみせる。ノートをとらせるスキも与えない。黒板に殴り書きしてイメージだけ残したらさっさと黒板をきれいに消してしまう。なんとなくわかったようなわからないような。ぽかんとした生徒の頭は、黒板を消されたら、どうやって解いたのかすっかり忘れてしまうのだけれど、なんとなく道順だけは残っている。ここでもう一度問題を書いて、今度はじっくりと解いてみせるのだ。
この方法、予習なんかしてこなくても授業を一分費やすだけで絶大な効果を上げる。何をしようとしているのか、ゴールを見せることで、教える側の意図がひどくつかみやすくなるのだから。
この自動予習機能をフルに生かしたのが餓狼伝。ただ同じことを二度書けばよいというわけではないけれど、夢枕貘の文章のうまさもあって、これはあり、だと思った。
by plasebo55
| 2006-09-20 00:28
| 戯れ言