鬼
2005年 03月 08日
白く気配をにごらせる煙が一本、立ち昇る。換気扇の回る音にも微動だにせず、白い筋は縦に昇ってやがて薄く横へと広がって行く。
煙管を持った方の肘をカウンターについて、きなりは店内へと視線を向けていた。なんとなく、古ぼけた写真のようだ、と思う。セピアの色にあせた写真。テーブルの上に逆さに乗せられた椅子、布の掛けられた家具、カーテンの下ろされたままの窓。
煙管の先に刺さる煙草の先は、煙になった分だけ灰に変わっていった。
ころん、と入り口の扉についたベルが鳴る。準備中の札のかかった扉を開けて入ってきたのはスーツ姿の男だった。
「こんな店に呼び出すんじゃねェよ」
日の光が逆光になって男の表情を覆う。どんな表情で言ったのか、どちらにしろきなりはそちらを向きもしなかったのでわからなかった。男は勝手に入り込んで、席を一つはさんだ隣の椅子に手を置いた。
こんな、といわれた店はここ数ヶ月休業したままの小さな喫茶店である。主が好んだ紅茶を楽しむための、そしてそれを振舞うための、小さな店である。今は客も主も存在しない。
「もともとあんたなんか用事ないもの」
店内に視線を向けたままきなりはぼそりと言った。椅子に横向きに腰掛け、さらに首を横向けて視線を落している。煙草の灰はまっすぐに伸びていった。
「俺もオマエに用事があるわけじゃねェんだよ」
コンクリートの床を木製の椅子の足がすべる。僅かなきしみ音もさせずに腰掛けて陣は本来なら主の居るはずのカウンターの奥へと視線を向けた。
代わりに小さな飾り時計が、黙々と仕事をこなしていた。
箭内陣。不動産業を営むその男は半年ほど前から、客のないこの店に通っている。彼自身も、一度も客として訪れたことはないが。
「店、売っとけ」
まるきり反対側を向いた男の言葉。ジャケットの内ポケットからソフトケースのタバコを取り出すと、慣れた手つきで唇に挟む。ライターにともる火を視界の隅に映して、きなりは捨てるように小さく笑った。
「何度断ったらその頭で理解できるの?」
肩を揺らしたせいで、長く伸びた煙草の灰がぽとりとカウンターに落ちた。灰皿はない。香りを楽しむために、店内は禁煙にしてあったから。
自分の携帯灰皿を探す少女の様子を視線だけ動かし捕らえて、男は息を吐く。扉へ顔を向け少しだけ唇を上向けて、細い煙と共に、ゆっくりと。
「金も稼ぐあても無ェ、誰の扶養も受けてねェ。15のガキがどうやって生きて行くつもりだ。世の中金がなけりゃ渡っていけねェ橋もあるんだぜ」
探し当てた灰皿の蓋を開けながら、カウンターに落ちたタバコの灰に視線を落とす。触れたら崩れるだろう。どちらにしろカウンターは拭くしかない。
「ちゃんと聞いてろ」
声に顔を上げれば陣の瞳はわずかに厳しさを増してきなりを見ていた。
「いいか。これは説教なんかじゃねぇ。ビジネスだ。オマエが店を売って、俺が金を払って、それだけのハナシだ」
「あたしが損をして、あんたが得をして、それだけの話ね」
カウンターの上をいくらそっと転がしても、案の定、タバコは崩れて白い跡を残していく。指先をこすり合わせても、ついた灰の汚れは落ちそうになかった。わざと、男に向かって指の灰を吹いて飛ばす。どうせ取れやしない、拭かない限りは。
「ビジネスってのはそういうもんだ」
陣は目を細めただけだった。言葉はわずかに語気を弱め、かわりに白い煙が吐き出される。
「それに、このハナシはあながち損ってわけでもない」
種明かしのつもりか、軽く肩をすくめる。男のタバコの灰はまだ短い。
「知ったことじゃないわ」
「わからんのはオマエが子供だからさ」
にらむきなりに、言葉はすぐに返された。椅子に腰掛けていてもきなりを見下ろす陣の表情は、やはり日の光を背負っていて黒くかすんでいた。不公平さに唇を尖らせたところで立場が変わることも無かったが。
「ここは、私のものよ。誰にも渡さない」
わずかに震える声は、怒りをはらんで男の耳に届く。きなりはかぶりをふる。別に親の思い出を失うなどと、感傷的なことを言うつもりも無い。そんな気持ちはかけらも持ち合わせていない。だけれど。
「答えは、変わらない」
搾り出すような声が唇の隙間から押し出されたときには、いつのまにか男は椅子から立ち上がって背を向けていた。振り返ることも無く、煙草を持った手をひらりと振って。捨て台詞を残して去っていく。
「いい加減賢くなりな」
「帰れ、馬鹿!」
携帯の灰皿を握り締めて叫ぶ声は、しまる扉にぶつかって、コロン、と音をたてただけだった。
――鬼の心
煙管を持った方の肘をカウンターについて、きなりは店内へと視線を向けていた。なんとなく、古ぼけた写真のようだ、と思う。セピアの色にあせた写真。テーブルの上に逆さに乗せられた椅子、布の掛けられた家具、カーテンの下ろされたままの窓。
煙管の先に刺さる煙草の先は、煙になった分だけ灰に変わっていった。
ころん、と入り口の扉についたベルが鳴る。準備中の札のかかった扉を開けて入ってきたのはスーツ姿の男だった。
「こんな店に呼び出すんじゃねェよ」
日の光が逆光になって男の表情を覆う。どんな表情で言ったのか、どちらにしろきなりはそちらを向きもしなかったのでわからなかった。男は勝手に入り込んで、席を一つはさんだ隣の椅子に手を置いた。
こんな、といわれた店はここ数ヶ月休業したままの小さな喫茶店である。主が好んだ紅茶を楽しむための、そしてそれを振舞うための、小さな店である。今は客も主も存在しない。
「もともとあんたなんか用事ないもの」
店内に視線を向けたままきなりはぼそりと言った。椅子に横向きに腰掛け、さらに首を横向けて視線を落している。煙草の灰はまっすぐに伸びていった。
「俺もオマエに用事があるわけじゃねェんだよ」
コンクリートの床を木製の椅子の足がすべる。僅かなきしみ音もさせずに腰掛けて陣は本来なら主の居るはずのカウンターの奥へと視線を向けた。
代わりに小さな飾り時計が、黙々と仕事をこなしていた。
箭内陣。不動産業を営むその男は半年ほど前から、客のないこの店に通っている。彼自身も、一度も客として訪れたことはないが。
「店、売っとけ」
まるきり反対側を向いた男の言葉。ジャケットの内ポケットからソフトケースのタバコを取り出すと、慣れた手つきで唇に挟む。ライターにともる火を視界の隅に映して、きなりは捨てるように小さく笑った。
「何度断ったらその頭で理解できるの?」
肩を揺らしたせいで、長く伸びた煙草の灰がぽとりとカウンターに落ちた。灰皿はない。香りを楽しむために、店内は禁煙にしてあったから。
自分の携帯灰皿を探す少女の様子を視線だけ動かし捕らえて、男は息を吐く。扉へ顔を向け少しだけ唇を上向けて、細い煙と共に、ゆっくりと。
「金も稼ぐあても無ェ、誰の扶養も受けてねェ。15のガキがどうやって生きて行くつもりだ。世の中金がなけりゃ渡っていけねェ橋もあるんだぜ」
探し当てた灰皿の蓋を開けながら、カウンターに落ちたタバコの灰に視線を落とす。触れたら崩れるだろう。どちらにしろカウンターは拭くしかない。
「ちゃんと聞いてろ」
声に顔を上げれば陣の瞳はわずかに厳しさを増してきなりを見ていた。
「いいか。これは説教なんかじゃねぇ。ビジネスだ。オマエが店を売って、俺が金を払って、それだけのハナシだ」
「あたしが損をして、あんたが得をして、それだけの話ね」
カウンターの上をいくらそっと転がしても、案の定、タバコは崩れて白い跡を残していく。指先をこすり合わせても、ついた灰の汚れは落ちそうになかった。わざと、男に向かって指の灰を吹いて飛ばす。どうせ取れやしない、拭かない限りは。
「ビジネスってのはそういうもんだ」
陣は目を細めただけだった。言葉はわずかに語気を弱め、かわりに白い煙が吐き出される。
「それに、このハナシはあながち損ってわけでもない」
種明かしのつもりか、軽く肩をすくめる。男のタバコの灰はまだ短い。
「知ったことじゃないわ」
「わからんのはオマエが子供だからさ」
にらむきなりに、言葉はすぐに返された。椅子に腰掛けていてもきなりを見下ろす陣の表情は、やはり日の光を背負っていて黒くかすんでいた。不公平さに唇を尖らせたところで立場が変わることも無かったが。
「ここは、私のものよ。誰にも渡さない」
わずかに震える声は、怒りをはらんで男の耳に届く。きなりはかぶりをふる。別に親の思い出を失うなどと、感傷的なことを言うつもりも無い。そんな気持ちはかけらも持ち合わせていない。だけれど。
「答えは、変わらない」
搾り出すような声が唇の隙間から押し出されたときには、いつのまにか男は椅子から立ち上がって背を向けていた。振り返ることも無く、煙草を持った手をひらりと振って。捨て台詞を残して去っていく。
「いい加減賢くなりな」
「帰れ、馬鹿!」
携帯の灰皿を握り締めて叫ぶ声は、しまる扉にぶつかって、コロン、と音をたてただけだった。
――鬼の心
by plasebo55
| 2005-03-08 19:39
| 戯れ言