空が青い。
今日の空は青いだけでなく、抜けるような透明感を持っている、と、碧は思う。季節が秋になったせいだろうか。秋の空はまた一段と遠くて、白い雲とのコントラストが目に痛い。
青は嫉妬の色だ。
碧は思う。思いついて、少し可笑しくなってその言葉を笑った。
手をかざして光を遮ろうとして、やめる。ここに来れば制服のように毎日きている白衣のポケットに手を突っ込む。白衣の前はだらしなく開けっ放しで、窓から入ってくる風に裾が揺れた。風を感じられないのももったいない気がして、すぐにポケットから手を出す。袖まくり。
窓枠に手をつくと後ろを振り返る。室内は人工の照明でそこそこ明るかったが、屋外のそれとは比べものにならなかった。「よ。と」小さく声をかけて、窓枠に腰掛ける。桟は2日前に拭いたばかりだが、白衣で腰掛ければ汚れは目立つだろう。かまうものか。碧は窓枠の上の方に手をついて、屋外へと視線を向ける。
中庭では、学生だろうか、数人がサッカーボールを蹴っている。5階からでは誰が、までは判別できない、小さな人影。ゴールもないが、なにで引いたのか、棒きれでも持ち出しただろうか、土を掘ってゴールラインが引かれている。
彼らの今は、サッカーがすべてだろうな。
碧は意識せず笑うと、そのまま視線を上へと向けた。彼らはきっと、空を見上げたりはしないだろう。こんな気持ちで。
青は、嫉妬の色だと思う。
その抜けるような、純粋で、透明で、ただひとつ、青からしか作り得ない、青色は羨望の的。嫉妬の対象。
空がまぶしくて眼鏡を外す。ひどい近視に乱視も入っている。眼鏡を外せばほとんどものは見えない。しかし色は別だった。人工物を通さないせいで青はますます透き通って見えた。碧は舌打ちする。
碧は、その名前のせいもあってか、緑色が好きだった。自然にあふれる緑色は、見ているだけで心を柔らかくする。鮮やかな緑も、薄い緑も、落ち着いた緑も、心のバランスを保つようで、そんなことを考えている今でも、こわばった肩の力が抜けるようだった。
けれど。
緑色には、青色のような、純粋な透明さがない。現実味のある、厚みのある色だ
それはきっと、緑色が、黄色と青色を混色して作られるせいだろうと、碧は考える。緑色は、色と色が混ざり合ってできている、いわば雑種なのだ。故に、サラブレッドのような純血の、高貴さとでもいうのだろうか、たった一つからなるが故の美しさがない。
故に緑は青に嫉妬する。
そこまで考えて、碧は苦笑した。こんなことを他の緑好きに言ったりしたら、すごい剣幕で非難されるだろう。
その緑好きを探す。人工照明の室内へ視線を戻すと、すぐに見つかった。白衣をまとった青年。よりによって嫉妬の対象と同じ名前、蒼、と言う名前の青年は、なにやらくみ上げたガラス器具の前で、注射筒と、ナス型フラスコを手に真剣な顔をしている。どこからか引っ張り出してきた文献を参考に実験中なのだ。碧に実験内容を提出し許可が出さえすれば、実験は自由となっている、誰であっても。
蒼の提出した実験計画書を思い出しながら、なんとなく、散らかった実験台の上を見回す。実験台が散らかっているなど言語道断だが、実験器具の方は、よく組み上げたものだと感心する。碧は、あまり実験器具を組み上げるのは得意じゃなかった。
けれど。それはわかった。碧でもわかる、ごくごく初歩的なミス。
「ソウ。それ……」
冷却器が逆だ。
言葉は最後まで続かなかった。スターラーとヒーターのスイッチは入っている。朝から実験は始まっている。しかし冷却が十分でないのなら、第一反応は完全には終わっていないのではないのだろうか。心臓が冷却される気分。反応が終わっているか確認しているのか? そこに亜硝酸塩なんか入れたら。
爆発音。
その前に、ぴしり、とヒビの入る音が聞こえた気がした。幻聴だろうが。わずかな衝撃を感じて目を閉じる。
硬質ガラスの割れる音。わずかに紫の混じる白い煙。異臭。
うっすらと片方目を開けると、もうもうと立ちこめる煙。しかし、すぐに煙は異臭とともに流れていっていて、視界ははれていく。
「ソウ!」
窓枠にしがみついたまま、声を大きくする。
災害の中心にいた青年は、まだ煙をまとっていた。煙を吸ったせいだろう、ひどく咳き込んでぼろぼろと泣いていたが、どうにか無事のようだった。もともと大量の反応ではなかったことが幸いした。
碧は大きく息をつく。
「うわ、びっくりした」
ようやく咳が収まった蒼の、第一声。
「びっくりした、じゃない。毎回毎回、何遍懲りずにしでかすつもりだおまえは」
「ひどいな先生、毎回ってほどでもないでしょ?」
蒼が泣いているのは実験が失敗したせいではない。この青年はそんなことでショックを受けたりするタマではない。煙がしみる、ただそれだけで大量の涙をこぼす青年を「いいから来い」手招きして、風上に呼び寄せる。
「先生、窓に座ったら危ないですよ」
「おまえのほうがよっぽど危ないだろうが」
窓際まできて、「5階ですよ、ここ」中庭を覗く蒼。何事もなかったかのような蒼の態度に、思わず声を低くする。涙は止まったようだがまだしみるらしく、目をこすろうとするのをぺちりと手をたたいてやめさせる。
何事もなかったかのように。しかし、確かにそうだ。この青年は、何度実験に失敗してもたいした怪我もしない。失敗慣れしているとでも言うのだろうか、恐いことを考えついて碧は眉をぴくりとはねさせた。
「とりあえず、後かたづけでは失敗するなよ。ああ。その前に目を洗え」
手を伸ばす。蒼の頬へ。
ガラス片で切ったのだろう、頬の傷から赤い血が出ている。薬品では汚染されていないようだ。ポケットから絆創膏を出すと、貼ってやる。
「ずいぶんとかわいらしい絆創膏ですね」
蒼は自分で緑のチェック柄の絆創膏にふれると、にこりと笑って見せた。まるで青い空のような笑顔だと、まぶしく思えて碧は視線をそらした。
今日の空は青いだけでなく、抜けるような透明感を持っている、と、碧は思う。季節が秋になったせいだろうか。秋の空はまた一段と遠くて、白い雲とのコントラストが目に痛い。
青は嫉妬の色だ。
碧は思う。思いついて、少し可笑しくなってその言葉を笑った。
手をかざして光を遮ろうとして、やめる。ここに来れば制服のように毎日きている白衣のポケットに手を突っ込む。白衣の前はだらしなく開けっ放しで、窓から入ってくる風に裾が揺れた。風を感じられないのももったいない気がして、すぐにポケットから手を出す。袖まくり。
窓枠に手をつくと後ろを振り返る。室内は人工の照明でそこそこ明るかったが、屋外のそれとは比べものにならなかった。「よ。と」小さく声をかけて、窓枠に腰掛ける。桟は2日前に拭いたばかりだが、白衣で腰掛ければ汚れは目立つだろう。かまうものか。碧は窓枠の上の方に手をついて、屋外へと視線を向ける。
中庭では、学生だろうか、数人がサッカーボールを蹴っている。5階からでは誰が、までは判別できない、小さな人影。ゴールもないが、なにで引いたのか、棒きれでも持ち出しただろうか、土を掘ってゴールラインが引かれている。
彼らの今は、サッカーがすべてだろうな。
碧は意識せず笑うと、そのまま視線を上へと向けた。彼らはきっと、空を見上げたりはしないだろう。こんな気持ちで。
青は、嫉妬の色だと思う。
その抜けるような、純粋で、透明で、ただひとつ、青からしか作り得ない、青色は羨望の的。嫉妬の対象。
空がまぶしくて眼鏡を外す。ひどい近視に乱視も入っている。眼鏡を外せばほとんどものは見えない。しかし色は別だった。人工物を通さないせいで青はますます透き通って見えた。碧は舌打ちする。
碧は、その名前のせいもあってか、緑色が好きだった。自然にあふれる緑色は、見ているだけで心を柔らかくする。鮮やかな緑も、薄い緑も、落ち着いた緑も、心のバランスを保つようで、そんなことを考えている今でも、こわばった肩の力が抜けるようだった。
けれど。
緑色には、青色のような、純粋な透明さがない。現実味のある、厚みのある色だ
それはきっと、緑色が、黄色と青色を混色して作られるせいだろうと、碧は考える。緑色は、色と色が混ざり合ってできている、いわば雑種なのだ。故に、サラブレッドのような純血の、高貴さとでもいうのだろうか、たった一つからなるが故の美しさがない。
故に緑は青に嫉妬する。
そこまで考えて、碧は苦笑した。こんなことを他の緑好きに言ったりしたら、すごい剣幕で非難されるだろう。
その緑好きを探す。人工照明の室内へ視線を戻すと、すぐに見つかった。白衣をまとった青年。よりによって嫉妬の対象と同じ名前、蒼、と言う名前の青年は、なにやらくみ上げたガラス器具の前で、注射筒と、ナス型フラスコを手に真剣な顔をしている。どこからか引っ張り出してきた文献を参考に実験中なのだ。碧に実験内容を提出し許可が出さえすれば、実験は自由となっている、誰であっても。
蒼の提出した実験計画書を思い出しながら、なんとなく、散らかった実験台の上を見回す。実験台が散らかっているなど言語道断だが、実験器具の方は、よく組み上げたものだと感心する。碧は、あまり実験器具を組み上げるのは得意じゃなかった。
けれど。それはわかった。碧でもわかる、ごくごく初歩的なミス。
「ソウ。それ……」
冷却器が逆だ。
言葉は最後まで続かなかった。スターラーとヒーターのスイッチは入っている。朝から実験は始まっている。しかし冷却が十分でないのなら、第一反応は完全には終わっていないのではないのだろうか。心臓が冷却される気分。反応が終わっているか確認しているのか? そこに亜硝酸塩なんか入れたら。
爆発音。
その前に、ぴしり、とヒビの入る音が聞こえた気がした。幻聴だろうが。わずかな衝撃を感じて目を閉じる。
硬質ガラスの割れる音。わずかに紫の混じる白い煙。異臭。
うっすらと片方目を開けると、もうもうと立ちこめる煙。しかし、すぐに煙は異臭とともに流れていっていて、視界ははれていく。
「ソウ!」
窓枠にしがみついたまま、声を大きくする。
災害の中心にいた青年は、まだ煙をまとっていた。煙を吸ったせいだろう、ひどく咳き込んでぼろぼろと泣いていたが、どうにか無事のようだった。もともと大量の反応ではなかったことが幸いした。
碧は大きく息をつく。
「うわ、びっくりした」
ようやく咳が収まった蒼の、第一声。
「びっくりした、じゃない。毎回毎回、何遍懲りずにしでかすつもりだおまえは」
「ひどいな先生、毎回ってほどでもないでしょ?」
蒼が泣いているのは実験が失敗したせいではない。この青年はそんなことでショックを受けたりするタマではない。煙がしみる、ただそれだけで大量の涙をこぼす青年を「いいから来い」手招きして、風上に呼び寄せる。
「先生、窓に座ったら危ないですよ」
「おまえのほうがよっぽど危ないだろうが」
窓際まできて、「5階ですよ、ここ」中庭を覗く蒼。何事もなかったかのような蒼の態度に、思わず声を低くする。涙は止まったようだがまだしみるらしく、目をこすろうとするのをぺちりと手をたたいてやめさせる。
何事もなかったかのように。しかし、確かにそうだ。この青年は、何度実験に失敗してもたいした怪我もしない。失敗慣れしているとでも言うのだろうか、恐いことを考えついて碧は眉をぴくりとはねさせた。
「とりあえず、後かたづけでは失敗するなよ。ああ。その前に目を洗え」
手を伸ばす。蒼の頬へ。
ガラス片で切ったのだろう、頬の傷から赤い血が出ている。薬品では汚染されていないようだ。ポケットから絆創膏を出すと、貼ってやる。
「ずいぶんとかわいらしい絆創膏ですね」
蒼は自分で緑のチェック柄の絆創膏にふれると、にこりと笑って見せた。まるで青い空のような笑顔だと、まぶしく思えて碧は視線をそらした。
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by plasebo55
| 2004-10-21 10:51
| オリジナル小説